2011年2月12日土曜日

避難所での3日目

ちょっと時間が出来たので、避難所での生活や私がやったことを、避難して翌朝母を安全なところ身内の家に避難させるために後にして、その晩はそこにとまり翌日昼高原にバスで舞い戻ってきました。バスの中では、この避難生活が長引くのでは、新燃岳の影響は我が家(狭野地区まで)及ぶだろうか、あの避難所での生活は3ヶ月覚悟し、その後も1年~3年厳しくなるかもといろんなことを考えていました。バスを降りるころには、長期戦への心構えというか決心みたいなものを考えていました。いち早く、日常の生活に近づけるように避難所でふるまう。周りを見て自分の出来ることをやろう。そんなことです。 私は、高原に帰るとまず、避難所にとめてあった軽トラックへそこに避難のときのせてた衣類・ちょっとした家財を確認し避難所「ほほえみ館」の中で、受付に座っていた役場の職員に現在の新燃岳の状況を確認しました。「今、どんなじょうたいなのですか」「家族を非難させるため、1日宮崎を離れていたので状況を教えてください。」返ってきた答えは、小林からのったタクシーの運転手さんとほぼ同じでした。テレビ・ラジオと変わらず、あまり情報はみんなもってないんだな。今日は○時ごろ噴火したよ。そんなことだけでした。今後どんな方針で、とか役場からの伝達事項みたいなものも特にはありません。自分の寝る場所が避難所にあるのかわからなかったので最初の一日目に泊まった場所に行きました。近所の人が、一人分の場所を確保していてくれ、持ち込んでいた毛布などがおいてありました。一人寝るだけのスペースがあり、隣の人との距離は・・・・病院の大部屋よりも近い、肩を寄せ合うような距離でした。それが、午後2時くらいのことで、その後、自宅へと軽トラックをとばし新たな荷物を運び出そうと考えました。自宅では、火山の「ごー」という音が近くに聞こえ、こわさがあったことを記憶しています。一時も早くここを出なきゃいけないと思いつつ、あれも、これも持ち出したいとの思いがありました。

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