2011年2月6日日曜日

朝早いうちに

朝の早いうちに忙しくなる前に、今回の避難指示から避難生活・ボランティア活動について私の考えを
書かせていただきます。 たかはるハートム 大迫

避難の指示
今回の避難の決定は確か午後10時50分ごろだったときいています。
我が家には、街中の方から11時40分ごろそちらは今どういう状況ですかと電話がありました。
何のことかその時点ではわかりませんでした。隣りのりんぽ班班長さんに夜中ではあったが電話
してみました。 すると、班長はいらっしゃらなく招集がかかったと奥様と話したところでした。
とりあえず、母と荷物を準備しようといろいろパッキングしていました。その間、山を見上げましたが
我が家からは直接その山をみることは出来ず、真っ赤になった空が遠くにぼんやりとあるだけでした。
そうこうしていると12時過ぎに班長が我が家に来て、みんなへ周知するのを手伝ってほしいと言われたので、2人で手分けして連絡しにいきました。もちろんその間母は荷造りを継続していました。
10軒ほどの家をまわらなくてはいけないので一番遠いほうから声をかけてといわれたのでとりあえずはしりました。途中高齢の方だいると思い入った一軒目は呼び鈴を鳴らすが反応がありません。 
みなさん、深い眠りに入っていたと思います。 次の家にとりあえずいき、同じように呼び鈴を連打しました。戸もドンドンとたたきますがなかなか起きてくれません。 ようやく明かりがつき でてくるまでに3から5分どの家もかかったと思います。私がきいていた情報は、新燃岳の火口に溶岩ドームが盛り上がっている。避難指示が11時50分に出た。ほほえみ館に避難してというだけですが、興奮しているのかうまく伝わったかぎもんです。きいている方もたたき起こされて?という人もいれば青ざめた感じのひともいました。とりあえず、ほとんどの家の戸をたたき起し、伝えたけれども、
消防団のサイレンで起きている人はほぼ皆無だったとかんじました。
我が家に帰り、連絡が取れなかった家の一軒に電話をかけると何とかつながり安堵したことは覚えています。 自分の家に車の無い人には隣りの人に声をかけていたけどどうなったのか分からない不安ではありましたが、自分の荷物をまとめ車で避難しました。

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